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お坊さんのブログ

弘法大師の華厳経の解説

人々は、自分の心の本当の姿を知らないから、輪廻の波は鼓動し続けるのであり、

自分の心の、そのみなもとを悟るから、唯一の心の、広大な水が澄んで静まるのです。

澄んで静まった水面に、森羅万象が影を落とすように、

唯一の心、つまり、仏はあらゆるものを映し、すべてを知るのです。

けれども、みなこのことわりを知らないから、いつまでも輪廻の世界で迷い、そこを抜け出せずにいるのです。

そのように、人々ははなはだ狂い酔って、自分の心の本当の姿を覚ることができません。

慈しみ深い父のようなほとけは、哀れみからその心へと帰っていく道を示されました。

その心への帰り道はとても遠く、この華厳の覚りも、途中での仮の休息所なのです。

休息所は常に住むところではありません。

あなたはまた、たちまちに移り変わっていくでしょう。

そして、その移り変わりはとどまることがありません。

すべてのものにはこれという決まった性質がないので、人は誰でもいずれ必ず、上へ上へと向かっていくのです。

だから、心の奥底の仏に導かれたあなたは、高きへ高きへと昇っていき、その道には限りがないことを知るでしょう。

この華厳経の心は、前の段階の法華経の心を、まだ真実のさとりではないと指を鳴らして驚かし、あなたの悟りの境地はまだ究極のものではない、と覚らせるのです。

自らの身心が「虚空と等しい」と覚る華厳の果(さとり)が、ここにおいて初めて起こり、その悟りの境地がまた、次への原因となります。

華厳の悟りは、それまでの法華経以下のものに比べると最高の仏果なのですが、密教に対して見れば、ここが初心となるのです。

華厳経には「この初心を起こすとき、ただちに覚りに到達する」と述べていますが、これを密教への出発点との意味にとれば、まさしくその通りだと言えましょう。

初心の仏とはいえ、その徳は不思議なものです。

あらゆる仏の徳がここに初めて現れますし、密教でいう一心がここにやや現れてくるのです。

この華厳の心を悟ったときに、世界そのものである巨大な仏は、わが身体であると知り、あらゆるものはわが心であると覚るのです。

 

以下、原文

自心に迷うが故に六道の波鼓動し、心原を悟るが故に一大の水澄静なり。澄浄の水には影万像を落し、一心の仏は諸法を鑒知す。衆生この理に迷って輪転絶ゆること能わず。

蒼生はなはだ狂酔して自心を覚ること能わず。
大覚の慈父その帰路を指したもう。

帰路は五百由旬、この心はすなわち都亭なり。都亭は常の舎にあらず、縁にしたがって忽ちに遷移す。遷移定れる処なし、この故に自性なし。諸法自性なきが故に卑を去け尊を取る。

故に真如受薫の極唱、勝義無性の秘告あり。

一道を弾指に驚かし、無為を未極に覚す。等空 の心、ここにおいて始めて起り、寂滅の果、果還って因となる。
この因この心、前の顕教に望むれば極果なり、 後の秘心においては初心なり。初発心の時にすなわち正覚を成ずること、よろしくそれしかるべし。初心の仏、その徳不思議なり。万徳始めて顕われ、一心やや現ず。

この心を証する時、 三種世間はすなわちわが身なりと知り、十箇の量等はまたわが心なりと覚る。