danapati’s blog

お坊さんのブログ

今日の護摩の話

長座、有り難うございました。

このお山もとうとう桜が散って来まして、新緑の季節がやって参りました。

ご参拝なさるには気持ちの良い爽やかな時期だなと思います。

えー、宗教というのは、神様や仏様が天の上にいて、

私たち人間の「生き方」を教えてくれるものだと思います。

でも、こちらの前におられる仏様、

不動明王」はじつは私たちの心の中に居られると言われます。

私たちが生きる上で、

どちらに進むのが良いだろうか?

こっちの方がいいな。

こっちに向かってはダメだな。

自分の心の奥底では、

私たちは、本当は自分がどうしたいか、

または、自分が何をしてはいけないか、

よくわかっているんです。

私たちの心の底の「良心」は、このように怖い顔で、

(お不動さんに手を向けながら)

自分が進みたくない方に間違って行ってしまわないように見てくれているんです。

真言宗では、そのように自分の心の奥底を見つめて生きることを推奨しております。

皆さんがここへ来てくださって、

護摩に参加してくださることで、

この真言宗の教えをお伝えする機会が得られる事は、大変ありがたく思っております。

本日は遠いところをご参拝いただき、

護摩にご参加いただき、誠にありがとうございました。

どうぞお気をつけてお帰り下さい。

これで本日の護摩法要を、終わらせていただきます。

にょじつちじしん(如実知自心)

心は身体の外にも内にも、その中間にも見つからない。

赤でも黒でも白でも黄色でもない。

分けて分けてどんなに探しても、心は見つからない。

そのような自分の心をあるがままに知ること、(如実知自心)が悟りです。

その心は世間のどんな言葉でも表せないので、

あ、ば、ら、か、きゃ
あびらうんけん

などの梵字真言で大空のようにとらえられない心を表すのです。

この心をまとめて梵字で一言で言うと、

「あ」

になります。

「あ」は、

すべての梵字を生み出す母です。

以上『大日経』などからまとめました。

今日の護摩の話

お山は下から上ってくると、

気温が5度ほど違います。

それで桜の開花も半月ほど遅れまして、

今が満開、いえもう散り始めているのもありますね。

そんな寒いお山ですが、

この時期、こうして護摩の火を焚くと、暖かくなってちょうどいいですね。

(笑い起こる)

これが夏だと、大変です。

我々はこれだけ重ね着してますからね。

さて、このように怖いお顔のお不動さんの前でお護摩を焚きますと、

自然と自分のやった悪いことが反省されてまいります。

私たちは煩悩を持っていますから、長い人生を歩んでいると、ついつい悪い方へと足を踏み外してしまうものです。

そんなとき、怖いお顔でお不動さんが叱ってくれる、監督してくれ、導いてくださる。

すると、自分が気づかず悪い方へ行ってることにハッと気づかされるときがある。

ここへ座ると、私は反省させられるんですね。

この反省を、仏教では「ざんげ」と言います。

反省や懺悔というのは、自分を振り返って、

気づき改めることであって、

自分を責めていじめる必要はないんですね。

「ざんげ」は自分を責めて落ち込むことじゃないんですよ。

このお山に来られて、綺麗な桜やお寺を見る、それも大変結構なことですが、

あわせて、この時間を反省、懺悔の時にもする。

そのようにお参りされるとなお一層よいのかなと思います。

私は率先して護摩行で反省しますからね。

今日は遠いところをお参り下さって、

まことにありがとうございました。

どうぞお気をつけてお帰りくださいね。

これで失礼します。

 

助けて欲しい

「助けて欲しい時」ってありますよね。

古代、人類はもっと命の危機が多く、医療も今のようではなく、

祈るしか心の安寧は無かったんじゃないでしょうか。

心から助けて欲しいと願ってしまうような場面で、

助けがくるストーリーなんかで泣いてしまいます。

人はみんな本当は助けて欲しい。

でも人事を尽くして天命待つと言うように、

やれるだけやることは大事。

真言宗はすがる信仰だけじゃなく、

自分が救う側になっていこう、自分たちにはその力が隠されてるんだっていう宗派です。

目の前の人が救われることに、

自分の救いを見いだす宗派です。

でも、救いって何でしょうか?

あなたはどうなれば救われますか?

言葉と心の一致

言葉と感情が一致すると心に喜びが生まれるのを感じます。

それって当たり前のようですが、振り返って考えてみると、なかなか完全に一致してることって少ないかもしれません。

嬉しかったら嬉しい、悲しかったら悲しい。
辛かったら辛い、苦しかったら苦しい。

僕はそのまんまを言えることって、

幸せに感じます。

おはようございます。

仏教を学ぶとは

仏教を学ぶとは、

「何が経典(お経)に書かれて
いるか」を学ぶことではなく、

「何がすべての経典を
書かせたか」を学ぶこと。

それは心。

心がすべてのお経を書かせました。

自分の心を知っていくこと、学ぶことが仏教を学ぶことです。

「どれだけ長い修行をしても、心を知らないならば、その修行に意味はない」

弘法大師一切経開題』

 

私たちの心は仏の心と変わらないと言います。

月に雲がかかっていて見えなかったり、

満月や三日月の違いがありますね。

見えなくても月はいつもまんまるな形であります。

心もこの月の例えと同じです。


円満な仏の心はいつも、私たちに宿ってます。

このことを知ってる人を仏と言います。