danapati’s blog

お坊さんのブログ

比叡山の最澄法師が理趣釈経を求めるに答えた手紙

お手紙をいただいて、深く私の心は慰められました。雪です、まことに寒いですね。

つつしんで思うに、天台の座主である法友、最澄どのはいつもご健勝のことと、貧道空海は安心致しております。

貧道と阿闍梨様との契りはもう何年になりましょうか。
私が常に思うには、それはニカワやウルシのように堅い交わりで、松や栢(カヤ)のように、冬になっても葉が落ちることはありません。

乳と水が混ざり、よい香りがするように、素晴らしい香草が混ざり香るように、私たちの交わりも素晴らしいものです。

最澄様の止観の瞑想は、高く大空から人々に教えを広められ、それはまるで早馬が馳せるように迷いの世界を跳び越えます。

法華経で二人の仏が座を分かって説法されているように、釈尊の法を最澄様と私空海とで広めようとの心、その契り、一体誰が忘れることができましょうか。

しかしながら、法華の教えはあなた様でなければ人々に伝えることはできず、秘密仏教はただ私のみが伝えるものです。

どちらも多忙で話し合ういとまもないのが実情です。
ですが、堅い約束を思えば、会って話すいとまはなくとも、忘れてしまうことなど決してありません。

この度、お手紙を開いて、理趣釈をお求めになられているとわかりました。

しかし、理趣と言っても理に趣く道は多うございます。求めておられる理趣とはいったいどの理趣のことであるか測りかねております。

理趣の道、釈経の文は、天でも覆えず、地にも載せられないものです。

全宇宙のすべての国土をちりにして墨にし、大河や海の水をもって書いたところで、たった一句、一つの詩でさえ、誰がその意味を尽くすことができましょうか。

大地のように広大な如来の心の力、大空のように広大な菩薩の心でなければ、どうしてそれを信じ理解し、受けたもてましょうか。

私は才能に乏しい者ですが、仏の教えの趣旨のあらましを述べてみましょう。どうかあなた様の仏智によって受け止めていただき、私の言葉にとらわれることなく、理趣の本義、密教が伝え来った妙なる法をお受け取りください。

さて、そもそも「理趣」という玄妙なる言葉は、無量無辺で考えてわかることではありません。

その意味するところのすべてを収めとって、根本だけ申しますと、およそ三つの意味に集約されるでしょうか。

一 聞く理趣
二 見る理趣
三 念(おも)う理趣

もし一の、聞く理趣を求めるならば、聞くべきはあなた自身の声、そして、それが仏の声と気づくことです。あなたの口の中の言葉がそれであり、他人の口の中に求めることはありません。

もし二の、見る理趣を求めるならば、見るべきものは眼前の色がそれです。また、あなたの身体がそれです。さらに他人に求めることはないのです。

もし三の、念う理趣を求めるならば、それは、あなたの一念の心中にもとよりそなわっているのです。さらに他人の心の中に求めることはないのです。

また、別の見方で三種の理趣を数えることができます。

一 心の理趣
二 仏の理趣
三 衆生の理趣

もし、心の理趣を求めるならば、それはあなたの心の中にあり、別人の身体の中に求めることはありません。

もし、仏の理趣を求めるならば、あなたの心の中に仏はいます。また諸仏にじかに求めてください。わたしのような凡愚のところに求めても益のないことです。

もし、衆生の理趣を求めるならば、あなたの心の中に無量の衆生がいるといえます。どうか、そちらにお尋ねください。

さらにまた、別の三種の分類があります。

一 文字の理趣
二 観照の理趣
三 実相の理趣

もし、文字の理趣を求めるならば、それは声の上の音の変化です。これは実体のあるものではないので、得ることはできません。また、紙に書いた字であれば、それに通じた博士に聞いてください。

もし、観照の理趣を求めるならば、観察する心と観察されるものと、ともに空で、色もなく形もないのであるから、誰がそれを取り、誰がそれを与えることができましょうか。

もし、実相の理趣を求めるならば、それは虚空のようなもので、そこには空のみあって、捉えられるようなものではありません。

また、あなたの言われる「理趣釈経」とは、あなたの身口意に「理趣」が秘められております。私の身口意に「釈経」が秘められております。

あなたの身口意は捉えられず、私の身口意もまた捉えられません。ともに不可得です。誰がそれを求められ、誰がそれを得られましょうか。

また、理趣に二種があります。それはあなたの理趣と、私の理趣です。

もし、あなたが理趣を求めたら、それはあなたのところにすでにあります。私のところに求めるべきではありません。

もし、私の理趣を求めるならば、この場合、私には「二つの私」があります。
一つはこの身体、もう一つは「無我の大我」がそれです。

もし身体の、仮の私の理趣を求めるならば、仮の私は実体のないものなので、どうやってそれを得ることができましょうか。

もし「無我の大我」、すなわち「大日如来」を求めるならば、その大日の身口意は一体どこに届いていない場所がありましょうか。あなたの身口意がそのままそれです。それ以外に求めてはなりません。

また私はいまだにわからないのですが、あなたは仏の化身なのでしょうか。それとも普通の人間なのでしょうか。

もし、化身ならば、仏の智慧はどこにでも満ちていますから、何があなたに欠けていて、今、さらに求めるというのでしょう。

もし、衆生を教え導くために、仏が仮に求める姿を見せてくださっているのなら、お釈迦様が悟る前に他宗教に教えを請うたようであり、また、文殊菩薩が実はもう悟っているのに、お釈迦様に教えを乞う姿を仮に見せたようであります。

もし、あなたが実際は普通の人間であるならば、仏の教えに従って、密教は面授を受けねばなりません。これを破れば、師弟ともに利益はありません。

密教の興隆と荒廃は、ただあなたと私の間で伝わるかにかかっています。あなたがもし法に従わずして受け、私がもし法に従わずしてあなたに伝えたならば、将来、法を求める人は、一体どうやって求道とは何かを知ることができましょう。

非法の伝授、これを「法を盗む」というのです。これはつまり仏をあざむく行為になります。

また、密教の奥深い教えは言葉では伝えきれません。
本当に密教を伝えるとは、「以心伝心」といって、ただ心をもって心に伝えるものなのです。

言葉はただの入れ物に過ぎません。中身を受け取らなければ、それらはただのかすのようなもの、瓦礫のようなものです。言葉のみ受け取れば、肝心な中身を失うのです。

中身を捨てて偽物を拾うのは愚かな者のすることです。あなたは愚か者の法に従うべきではありません。そのように求めるべきではありません。

いにしえの人は道のために道を求めました。

今の人は世間の名誉や利益のために道を求めます。

名のために道を求めるのは、求道の志しではありません。
求道の志しは「己れ」を道のなかに忘れます。

お釈迦様が前世で偉大な王だった時に、王位を捨てて仙人に仕えたように。

教えを聞いて、これを自らは実行せずに他人に説くことを、孔子は許されませんでした。
また、時機が来なければ仏陀は教えを説きません。

なぜならば、法には考えても入ることはできず、ただ信心によって入ることができるからです。口で信じ修行していると言っても、心が嫌がっていれば、頭があって尻尾がないようなものです。

言って行わなければ、信じ修行しているようであるけれど、信修とは言えないのです。
初めはよくて、終わりをよくするのが君子の人です。

世の人は宝のような女性を嫌って婢賎(ひせん)を愛し、願いを叶える摩尼の宝を嘲笑って、価値のない石を大切にしています。竜の像を好んで真の竜を見て逃げ回り、乳がゆを嫌い、金に似た石を宝と思っています。手にコブのある者は誤って左手を切ってしまいます。

善悪、清濁を判別できなければ、醍醐に喩えられるような最高の法の味を誰が知り得ましょう。

顔をよく見ようと思えば、鏡を磨かなければなりません。磨き粉の有無をいつまでも論じているべきではありません。

心の海岸に達しようと思うなら、船を漕がなければなりません。その船について議論していて何になりましょう。

毒矢を抜かずして、空しくその矢がどこから飛んできたのかを議論し、道を聞いても動かなければ、千里の道の先をどこに見つけられましょうか。

二つぶの丸薬は病魔を退けることができます。一と匙の仙薬は人を仙人にします。

たとえ、千年、病理、薬学の書物を読み上げても、どうして、煩悩の賊を打ち倒すことができましょうか。

海水をすくう信心、鎚(つち)を磨いて針をつくるようなお人でなければ、誰がみなが仏になれるのだと信じ、思慮の及ばない瞑想を修するでしょうか。

やめなさい、やめなさい、とどまりなさい、とどまりなさい。

私はまだそのお人を見てはいないけれど、どうしてその人にお会いするのが遠いことがありましょう。

信じ修すればその人です。

もし信修することがあれば、男女を問わず、みなその人なのです。貴賤をえらばずことごとくその器の人なのです。その器の人が来て、扉を叩くときは、その音は必ず大きくこだまし響くのです。

妙薬が箱に満ちていても、その薬を飲まなければ誰が病を治しましょうか。たくさんの服を持っていても、着なければ寒いだけです。阿難(アーナンダ)はお釈迦さまの言葉を一番聞いていたけれど、お釈迦さまはそれで良いとはされませんでした。

お釈迦さまは修行に努めたので、遠からずして悟りを開かれました。仏教者は代々、お釈迦さまのように実修してきました。

悲しいかな、末世の仏は衆生を棄てて涅槃に入り、
法華経に説かれる五千人の衆生は仏の教えを疑い、自分たちはすでに高い境地に到達していると驕って退出しました。

経の教えを聞くものはすべて救われるとはいうけれど、名刀も子供に与えれば怪我をすることがあるように、

いまこの真言の妙法も、伝法灌頂に未入壇の者に伝授してはならないとの、師から師へと受け継がれてきた訓告を、私たちは慎んで受けなければなりません。

あなたがもし、仏の誓いを違えずして、それを自身の生命のように護り、四つの禁戒を自分の目のように大切にし、教えの通りに瞑想し、誓いをたてるならば、

大日如来の五智の秘印の教えを、ただちに受けることができるでしょう。

言うまでもなく、法華経に説かれる隠された宝(理趣釈経)も、誰がその時に惜しみましょうか。

努力し、自分を愛してください。

使者が還るにたくして、一つ二つばかりを記しました。

釈遍照