danapati’s blog

お坊さんのブログ

土星の衛星で海が見つかった

土星の衛星の一つに「地下海」があることが、新たに分かったそうだ。

そこにはもしかしたら、生命がいるかもしれない可能性もあるそうだ。

僕はこう思っている↓。

いつか証明される日がくるんじゃないかと思ってるんだけど、

それは、

「生命」とは何なのか?

この問いに対する答えなんだ。

僕は、

実はモノと生命は繋がってるっていうか、

我々がモノと、単に思っているものは、

永い永い年月のうちに、

寄り集まって、「生命」になるんだと思ってるんだ。

モノと生命にほんとは境目がない。

言い方を変えると、

つまり、この世界は初めから

「すべて、生命」なんじゃないかってこと。

「生命」とは何?って科学者とかが考えてると思うんだけど、

そもそも、を考えなおしてみて欲しい。

よく動くから、僕らはそれを「生命」だと思い、

あまり変化が無いから、「生命」じゃないと思ってる。

だけど、わかんないよ?

もし僕の想像する通りなら、

悠久の時をかければ、目の前の石ころは姿を変えるかもしれないんだ。

そんな世界観、楽しくない?

早く証明される日が来ないかな。

夜寝る前の作法

あのね、暗くしたよ。

あのね、

布団に入ったらね、

寝る前に、

自分の胸とかお腹に手を当ててみて

「愛してるよ」って言ってみて欲しいんだ。

うん。そうそう。

そしたらね、よっぽど自分の身体に自分が愛されてる(生かされてる)って気づかない?

僕はずっと、身体に甘えて大切にして来なかったのに、

身体はいつも僕を愛して助けてくれて来たの。

これからは恩返ししていかなきゃね。

さとりってこれじゃない?

さとりとは、

「そうなんだね」と

手を当てること。

これ、僕が今思ってる最強のさとり。

どういうことかっていうと、

さとりを開くと、すごいさとった「しるし」があるって想像してる人と、

いや、さとっても何もない、そのままの日常が続いていくって言う人とに、昔から分かれるみたいなんだ。

多くの人は、前者のようなイメージを持ってるだろうし、

僕も若い頃はそれを目指して頑張るのが修行だと思ってた。

でも、知れば知るほど、

どうも後者のようなんだよね。

仏教の開祖、お釈迦さんは、

ざっくり言っちゃえば、

死ぬのが怖くて修行して克服しようとした結果、

「あ、やっぱり生まれてきた者は亡くなるわ」

って思ったんだ。

それで、さとりが開けたんだけど、

これって、最初に言った、

「あ、そうなんだね」

だと思うんだ。

みんな、なんだそんなことと思うかもしれないけど、

手を当てるのは親しい人にしか出来ないから、

ためしにこの声がけだけでも日常でやってみると、ものすごいことが起きるかもよ。

コツは、「どうして何々なの?」とかの追求する言葉を、

「そうなんだね」「あなたはそうなんだね」

に変えてみること。

あ、あと、言う時に、愛情はできるだけ込めた方が効果が大きいみたい。

練習で、

自分に手を当てて、「そうなんだね」ってつぶやいてみるのもいいと思う。

僕は最初そうやってみたよ。

長年解けなくてもう自分の一部になってしまって気づきにくい緊張感とか、吐き出せなかったせいで溜まってて、やり場のない怒りとかが、声がけを続けるうちにゆるんだり、浄化されたりしたんだ。

さとりって、実現不可能なほど難しいことと、一般に思われてると思うんだけど、

実は難しいと思われてる理由って、

単に探すところを間違ってたから難しいんじゃないかなと思う。

なぞなぞとかで、

えっ、そんなこと!?って答えあるじゃない?

まだ信用できないって顔をしてるそこのあなた。

あなたはそうなんだね。

これは、特に僕に足りなかったから、目からウロコだっただけなのかもしれないけど、、

でも、だまされたと思って一回やってみてね。

あ、そうそう。

お釈迦さんは弟子が亡くなったことに対して、淋しくてたまらないとも言ったそうだよ。

この世のものは何一つ永遠じゃないって分かって、さとりを開いたからといって、悲しみや淋しさを感じないわけじゃないんだね。

護摩の木は煩悩のこと

君たちの中に煩悩がある!

護摩はそれを燃やすんだ。

護摩で燃やす木は煩悩のことなんだ。

木は燃やしたら熱と明かりになるだろ?

煩悩があるから、みんな周りを暖め、照らす人になれるんだ!

くすぶってちゃいけない。

燃やしきれ!

空海『即身成仏義』

『即身成仏義』翻訳

一般仏教では、「地水火風空」は元素(ものの素)だっていうけど、

真言密教ではそれは仏の願いが具現化したものだとするんだ。

地水火風空は心に映り、ものは心、心はもの。

ものと心は障りなくさまたげなく融け合っている。

心の中に見られるものは有り、

見るものと見られるものの区別は無い。

そもそも、僕たちが名前を付ける前の世界に「造った、造られた」などあるだろうか

「造った、造られた」と一応の区別を言ったとしても、それらはほんとのところ、仏のはたらきを指し示す、秘密の暗号として受け取って欲しい。

言葉の浅い意味に執らわれて、誤ってはならないよ。

このように、地水火風空と心によって「出来ている」すべての存在も、

さわりなくさまたげなく融け合って、お互いに入り混じり合い、個体のそのままに永遠の真実として生きている。

これを、地水火風空と心はさまたげなく融け合って、常に結びつき合っているというんだ。

(原文 六大無礙にして常に瑜伽なり)

「さまたげがない」とは、自在に入り混じり合うことで、それが「常に」とは、入り混じり合ったままずっと続いてくってこと。

僕たちは心も身体も、いつも世界とぴったりと添い、結びついている。

世界はそのように、個々のものがぴったりと寄り添い合い、

つながり合い、一緒に揺れ動くことで出来上がっている。

これを「即」という。

即身成仏の即とは、そういうことなんだ。

仏と仏じゃないものを分ける細かい見方もできるし、

仏じゃないものも、すべて仏だと知る大きな生き方もあるんだ。

大きな生き方を選んだ時には、この「即」のために、あなたはもう仏なんだ。

選ばなくても、ね。

 

『即身成仏義』原文

もろもろの顕教の中には四大等をもつて非情となし、密教にはすなわちこれを説いて如来の三摩耶身となす。

四大等心大を離れず、心色異なりといえども、その性すなわち同なり。色すなわち心、心すなわち色、無障無礙なり。

智すなわち境、境すなわち智、智すなわち理、理すなわち智、無礙自在なり。能所の二生ありといえども、すべて能所を絶せり。法爾の道理に何の造作かあらん。能所等の名はみなこれ密号なり。常途浅略の義を執して種種の戯論をなすべからず。

かくのごとくの六大法界体性所成の身は、無障無礙にして互相に渉入相応し、常住不変にして同じく実際に住せり。

故に頌に 六大無礙にして常に瑜伽なりという。 無礙とは渉入自在の義なり。 常とは不動、不壊等の義なり。瑜伽とは翻じて相応という。相応渉入はすなわちこれ即の義なり。

無我とナルシストさん

たとえば、

ナルシストって、

自分のことばかり考えてるのに人生うまくいかなそうじゃないですか?

友だちできなかったり。

どうしてナルシストはうまくいかないのでしょうか?

それは現実の自分と、そのナルシストさんの「思ってる自分」(自己イメージ)のあいだに、ギャップがあるからだと思うんです。

本人はそのギャップに気づかなかったりするんだけど、

周囲の人は、結構それに気付いてるものです。

それでいい方のギャップ萌えならいいんだけど、

ギャップ萎えしちゃう。

そこにナルシストさんが周囲に引かれる理由があると思うのですが、

仏教の無我の教えって、

このギャップを指摘してるんですよ。

ナルシストさんに関わらず、

誰しも自己イメージって持ってるんです。

そして、多かれ少なかれ、そこには現実とのギャップはどうしても生まれます。

「それ(その自己イメージ)ってアナタじゃないよ」

「現実のあなたはそんなんじゃないよ」

仏教ではそういうことを、もっともっと厳密なレベルで言うんですけど、

まあ、大枠そんな感じなんですよ。

「無我」の我って、「あなたの考えたあなた」のことで、

考えどおりのあなたはいないよってことです。

竹村先生の本の要約4

脳が対象の像を作りだすはたらきを心といえば、

心は心の中に映像を浮かべてそれを見るものであります。

それが心なのです。

仏教の「唯識」で考えている識は、まさにそういうものです。

自分の中に対象の像を現し出して見るもの、

そのような構造をもっているものが識です。

心の中に見るものと見られるものとがあるのです。

我々が見たり聞いたりしているものは、脳が現わし出したものかもしれない。

言い換えれば、心が現わし出したものかもしれない。

しかし、それを生み出す基になる外の世界のものがあるのではないか。

東京から新幹線に乗ると時間通りに京都に着きます。

そのような時間・空間からなる物質的な世界が外にあるのではないか。

これは極めて当然の考え方だと思います。

ただ、唯識の場合、

我々が、その外のものと思っているものが、

もうすでに自分の心の中に取り込まれた像だと言っているのです。

「『成唯識論』を読む」 竹村牧男 著

要約