脳が対象の像を作りだすはたらきを心といえば、
心は心の中に映像を浮かべてそれを見るものであります。
それが心なのです。
仏教の「唯識」で考えている識は、まさにそういうものです。
自分の中に対象の像を現し出して見るもの、
そのような構造をもっているものが識です。
心の中に見るものと見られるものとがあるのです。
我々が見たり聞いたりしているものは、脳が現わし出したものかもしれない。
言い換えれば、心が現わし出したものかもしれない。
しかし、それを生み出す基になる外の世界のものがあるのではないか。
東京から新幹線に乗ると時間通りに京都に着きます。
そのような時間・空間からなる物質的な世界が外にあるのではないか。
これは極めて当然の考え方だと思います。
ただ、唯識の場合、
我々が、その外のものと思っているものが、
もうすでに自分の心の中に取り込まれた像だと言っているのです。
「『成唯識論』を読む」 竹村牧男 著
要約