danapati’s blog

お坊さんのブログ

今日の護摩の話

今日の護摩の話

今日は外国の方ばかりですかね?

日本語お分かりの方おられます?

(ちらほら)

えー、私は日本語しか話せないもので申し訳ないのですが、少しご挨拶させていただきますね。

(通訳してくれる人あり)

「宗教」の、その一番最初の姿は、

私はもともとは、赤ちゃんがお母さんに泣き叫ぶようなものだったのではないかと思っています。

赤ちゃんが辛くて、苦しくて
「おかあさーん!」と言葉にならない気持ちを叫ぶ。

宗教というものは、色々と理屈もついてくるものですが、

その最初の姿は、この世の苦しみや、様々な願いごと、

やり場のない思い、そういう気持ちを、

神様に聞いてもらう形だったのではないか。そういう気がするんです。

やり場のない気持ちを胸や腹に溜めていると、そのうちにそれは腐ってきますから、

食べたら出すのと一緒。吐き出さなければなりません。

経験も食べ物も、必要なところだけもらったら、あとは要らないよって出さないといけません。

気持ちも一緒ですね。

もうひとつ。

私たちが成長して、おとなになっていくには、

お願いばかりではいけません。

あれが欲しい、これが欲しい、こうして欲しい、ああして欲しい。

欲しい欲しいではいけないんです。

祈るときに、神仏から与えられている自分の力を信じて、

自分の心の奥底に呼びかけるんです。

そして、奥底の力を引き出す。

そういう祈り方もあるんです。

高野山では、その二つ、

ひとつは神様仏様にやり場のない気持ちを聞いてもらう。

もうひとつは自分の力を引き出す。

この二つの祈り方を伝えています。

(通訳でわかった人が満面の笑みでこちらにうなづいてくれる)

今日は皆さん、ご参拝なされて、いろんな仏様やお寺に出会われると思いますが、

そのおりに、長い時の中で数々の人の悩みを受け止め、また人々に力を与えてきた神仏、お寺なのだなあと思いながらご参拝されると、

なおいっそう有難いご参拝になろうかと思います。

このさっき言った二つの祈り方は、きっとさまざまな宗教に通じるものがあるのではないかと思います。(外国の方をチラ見)

それでは、本日の護摩行をこれで終わりに致します。

皆様、遠いところをご参拝下さり、まことに有り難うございました。

お気をつけてお帰りください。