観察自在な瞑想マスターが、自分をつくるすべては「空」だとはっきり解り、
一切の悩みを乗り越えた。
仏弟子よ、
あなたをつくる肉体は「空」に異なることなく、
肉体は「空」である。
あなたをつくる心の様々な姿もまた「空」である。
仏弟子よ、
この「空」というのは、
「生まれる」もなく、「死ぬ」もなく、
「汚れた」もなく、「浄化された」もなく、
「増えた」も、「減った」もない。
今言ったそれらは「言葉」にしか過ぎず、
真実のこの世は、かたときもとどまることがなく、「言葉」で切り取った思考どおりのものではないからだ。
なので、「五感」と「心」、つまり「六根」もただの名前。
それが捉える「世界」といってみても、それも名前。
これらが結びついて、「世界を認識した」といっても、それも名前なのである。
根本の煩悩があって苦しみを生んでいるとお釈迦さまがおしえられたが、
それも言葉で切り取って示されていることを、忘れてはいけない。
この言葉の制約、思考の限界を知った上で、
いまだ言葉で切り取られていない「世界」を想像してみなさい。
言葉や思考を超えたそこには、
確かに、様々なことが尽きることなく、続いているのだろう。
だから、
「智慧」とか「覚り」と表現していても、
仏の教えのすべては、
言葉の超越を意味していることを
理解しなければならない。
言葉の超越とは、無所得、
つまり、言葉で切り取ることで、得られたと勘違いしないことだ。
菩薩と呼ばれるような人は、この無所得の智慧によって、
心に、とどこおる所が無く、
心にとどこおる所が無いから、
心に恐れが無く、誤った見解から完全に離れている。
過去の仏、今の仏、未来の仏も、
この無所得の般若の智慧によって、
最上の覚りを得られたのだよ。
この言葉や思考を超えた、
般若の智慧こそは、
大いなる本当の言葉(真言)、
この上ない真言。
比べるもののない真言である。
それはすべての苦しみを除くものだ。
それこそが真実で、はかりしれない効験がある言葉だ。
その真言をいまここに示そう。
それは
ぎゃてー
ぎゃてー
はーら
ぎゃてー
はらそうぎゃてー
ぼうじそわか
(ニュアンス:さらさら行くよ、
とどまるなかれ、とどまらなければ覚りが開けるよ)
※五感に縛られると不自由。
自由に五感を使いこなして、
みんなで幸せになろうよ