「千と千尋の神隠し」って見たことありますか?
その中にカオナシっていう名の、
相手の欲しいものをなんでも与える、ちょっと気持ちの悪い見た目(人による)のキャラクターが出てきます。
欲しいものをなんでも与えてくれるなんて、
いいやつじゃないか!と、普通は思うかもしれません。
でも、ストーリーが進んでいくと、
カオナシはほんとは、
相手からのたぶん、「愛が欲しい」んですね。
それで、ニセモノの金塊なんかを出してきて、
相手に与えるんです。
しまいには相手を飲み込んでしまったり、
主人公の「千(せん)」を「千欲しい」と行って追いかけたりします。
ここで僕は思うのですが、
仏様や菩薩様も、一面、カオナシと同じように我々に与えてくれる存在だと思うんです。
では、カオナシと何が違うのか…。
それは、ニセモノを与えるところと、
そして、ただ与えて甘やかすこと、
さらには、本当は自分の方が与えて欲しいところだと思います。
つまり、カオナシはエセギバーだってことです。
仏や菩薩はギバー。
さて、甘やかしの話は今は置いとくとします。
…仏や菩薩と同じようには、私たちは与え続けられないかもしれない。
だけど、
そんな私たちにできるとしたら、
自分が愛されたいなら、
自分もホンモノを相手に与えることではないでしょうか。
これは、
相手と自分という2人だけの狭い世界で考えていると、なかなか与えにくいと思います。
でも、視野を広げてみて、
仕組みはわからないけれど、
回り回って自分の住んでいる世界が浄化されていくのであれば、与える意義を見出せるのではないでしょうか。
そして、仮に相手から返ってこなかったとしても、できるだけそこにこだわらずに、
次へ行くことができるのかもしれないと思うのです。