ほとけを拝む、祈るとは、
初めは仏に対して拝むが、
本当のところは、
拝む自身、
拝まれる仏、
願いの叶う叶わないも、
すべて忘れる。
これが本当に拝むということである。
そこには拝む自分も拝まれる仏もなくなる。
なくなってひとつになってしまって、
しまいにはそのひとつも忘れると、大きな光に触れるので、仏と共に無限に生きられるのである。(取意)
金山穆韶(かなやまぼくしょう1876-1958)
『弘法大師の信仰観』
ほとけを拝む、祈るとは、
初めは仏に対して拝むが、
本当のところは、
拝む自身、
拝まれる仏、
願いの叶う叶わないも、
すべて忘れる。
これが本当に拝むということである。
そこには拝む自分も拝まれる仏もなくなる。
なくなってひとつになってしまって、
しまいにはそのひとつも忘れると、大きな光に触れるので、仏と共に無限に生きられるのである。(取意)
金山穆韶(かなやまぼくしょう1876-1958)
『弘法大師の信仰観』