みなさんは、仏というと死んだ人と思われるかもしれませんね。
それから、悟りを開いたといったら、完全無欠な聖人君子を思い浮かべるかもしれません。
今日は改めて明言しますが、
仏とは目覚めた人のことです。
それは、私たちにとっては、自分の中の「餓鬼」や「修羅」に気づく目のことだと思うんです。
残念ですが、餓鬼や修羅は私たちの本能として、一生ついてまわります。
それに気づくかどうかが、人間に戻れるかどうかのチャンスとなってきます。
それから、お釈迦さまがなぜ聖人君子のようだったか、
それは「福智」といって、その両方を持っていたからと説明されます。
智とはさとりの智慧。つまり、目覚めたことですね。
一方、福とはお釈迦さまが、
永い年月をかけて人を分かり、導き、人の信頼を得るような功徳を備えた人格となられたことを指します。
そうであるならば、
目覚めたからといって、急にはお釈迦さまのようにはなりません。
そこからも、福の修行を積んでいくんです。
誰もがです。
そして、その福の修行は目覚める前から出来るし、目覚めた後もしていきます。
大事な修行である六波羅蜜(ろっぱらみつ)でいうと、
布施(ふせ:ほどこし)
持戒(じかい:よい習慣)
忍辱(にんにく:目的のための我慢)
精進(しょうじん:細く長く継続)
禅定(ぜんじょう:瞑想、心まとめ、自分見つめ)
以上5つが福の修行、
智慧が智の修行と言えるでしょうか。
智慧の修行は「自分」に気付くこと。
それではまた。