真言宗の教えでは、
みんな完璧ってことになってます。
正確に言うと、完璧なものを内に秘めてるという意味で言ってるんですが、
僕自身を振り返ると、
欲しいものごとがいっぱいあった若い時は、そのまんまの自分は全然ダメで、
いつも何か価値あるものを欲しがっていて、
自分は変わらなければならないと強く思っていたように思います。
しかも、一部を変えるというよりは、嫌なことがあるたびに、いっぺんに全部を変えようとするような。
我々がもし真言宗で言うように、完璧なのであるとしたら、どうなるでしょう?
もしかしたら、特に何にも欲しくならなくなって、
落ち着いて穏やかになるんじゃないでしょうか?
仏教でいう完璧って、いろいろと調べていくと100点のことじゃないような気がします。
テストの点で例えるなら、
0点でも100点でも完璧だというんです。
ということは、世間とは違うポイントから見ているようですね。
では、真言宗でいう完璧とはどういう意味なんでしょうか?
難しい言葉を使って説明しても、伝わりにくいと思ったので、
やっぱりテストの点で例えますね。
僕の考えでは、
存在だけで、100点満点💯もらえてる。
てことは、世間の0点の時点で100点。
あとは追加の点で、200点までボーナスがある。
これでも伝わらないでしょうね。
とにかく、真言宗ではみんな、内に秘めてるものは100点だということでした。
持ってないから手に入れるんじゃなく、
持ってるんだから、あとはこの人生で出すだけだと言うんです。
僕が持って生まれてきた宝とあなたが持って生まれてきた宝は違う。
違うけど、どちらも宝。
あの人が持ってるものいいなー、ばかり言ってると、
自分が天から与えられた宝に気づけなくなるんです。
人生とは自分がどんな宝なのか知る旅です。