分かるとは分けること。
仏教は全てで一つと言ってるので、
分かった!と思ったら50点。
感じたことも50点。
仏教の勉強は世間の勉強と違うんですね。
たとえば、
ほら、きれいな月!と言って、月を指差します。
指は真理を伝える言葉のことなんですが、
その指をみんなが見つめます。
いやいや、その先を見て!
分かろうとする行為は出発点としてはOK。
ですが、仏教ではそれはそもそも50点を目指しているってわきまえておくのがすごく大事なんです。
じゃあ100点ってなに?
その疑問自体が「分かろうとすること」だって気づいてますか?
分かるとか、感じるのは、仏教で言えば、その先を伝えるためのハシゴなんです。
この先に行くには、分けたこと、感じることばかり見つめず、
「先に行きましょう」。
つかむとひと安心しますが、仏教の伝えようとしている安心は、50点の安心ではなく100点の安心です。
分かったは分かってない。
ここが世間の学問と仏教の違うところで、
人間の理解の不完全さを知ること、
仏教の教えはすべて架け橋なんです。
その先は、、、言葉で言うのは今は控えておきます。
分かるは分ける、それだけ覚えておいて。