danapati’s blog

お坊さんのブログ

『大日経』部分訳

さとりとは何かというと、

「如実知自心」です。

つまり、あるがままに、みずからの心を知ることです。

それは、

心もさとりも、

まったく得られないことを知ることです。

心は内側にもなく、外側にもなく、
内と外の中間にも、
「これ」と言った心の形などないのです。

また心は青でもなく、黄色でもなく、
赤でもなく、白でもない。
紫色でもなく、水晶のような透き通った色でもない。

長くもないし、短くもない、
丸くもないし、四角でもない。
明るいものでもないし、暗いものでもない。

男でもなく、女でもなく、
男でも女でもないものでもない。

心とは、
眼耳鼻舌身や思考で、

とらえられるものではありません。

なぜかと言うと、
心はおおぞらと一緒で、
形がないものだからです。

様々な思慮を離れ、
思いが無いということからも
離れています。

形が無い点で、
心とおおぞらは同じで、

それらはまた形が無い点で、
「さとり」と同じなのです。

なので、心を知ればさとりを開くことになるのです。

ただし、
その心は、
区別されたところ、
色彩、
形などに求めても、
心は捉えられない。

このように、
心を捉えられないと知ることを、
「真理を明らかにする入り口」といいます。
修行者は、これを修め学ぶならば、
長い間修行しなくても、
そのまま「全ての障害を取り除く」という瞑想の境地を得ることができます。

この瞑想の境地を得れば、
仏や菩薩と等しいものになれます。

そうすれば、

超人的能力を発揮するようになり、
量り知れないほどの数多くの言語を理解する力を得て、

人々の心のはたらきを自在に知り、

様々な仏に守られて、迷いの世界のうちにあっても、そこに染まらず、人々を救い続け疲れ嫌になることがありません。