さとりとは何かというと、
「如実知自心」です。
つまり、あるがままに、みずからの心を知ることです。
それは、
心もさとりも、
まったく得られないことを知ることです。
心は内側にもなく、外側にもなく、
内と外の中間にも、
「これ」と言った心の形などないのです。
また心は青でもなく、黄色でもなく、
赤でもなく、白でもない。
紫色でもなく、水晶のような透き通った色でもない。
長くもないし、短くもない、
丸くもないし、四角でもない。
明るいものでもないし、暗いものでもない。
男でもなく、女でもなく、
男でも女でもないものでもない。
心とは、
眼耳鼻舌身や思考で、
とらえられるものではありません。
なぜかと言うと、
心はおおぞらと一緒で、
形がないものだからです。
様々な思慮を離れ、
思いが無いということからも
離れています。
形が無い点で、
心とおおぞらは同じで、
それらはまた形が無い点で、
「さとり」と同じなのです。
なので、心を知ればさとりを開くことになるのです。
ただし、
その心は、
区別されたところ、
色彩、
形などに求めても、
心は捉えられない。
このように、
心を捉えられないと知ることを、
「真理を明らかにする入り口」といいます。
修行者は、これを修め学ぶならば、
長い間修行しなくても、
そのまま「全ての障害を取り除く」という瞑想の境地を得ることができます。
この瞑想の境地を得れば、
仏や菩薩と等しいものになれます。
そうすれば、
超人的能力を発揮するようになり、
量り知れないほどの数多くの言語を理解する力を得て、
人々の心のはたらきを自在に知り、
様々な仏に守られて、迷いの世界のうちにあっても、そこに染まらず、人々を救い続け疲れ嫌になることがありません。