「仏道をならうというは、自己をならうなり」
と言ったそうです。
自己とはなんでしょうか?
自分?の身体?心?
お釈迦さんは世間の人の心を、
干上がった川で魚が水を求めて、
跳ね回っているようだと言いました。
そして、それをやめるのが安楽だと。
これを私たちに当てはめるとどうなるでしょう。
その「やめる」心を、
何かを求め動くなかででも、
その心だけ出来れば、
それはお釈迦さんの言ったことを捉えられているのではないでしょうか。
平たく言うと、
「結果に執着せず、結果を得る」となるでしょうか。
普通は我々は執念で結果を得ますが、
仏教とは、あわてず騒がず、シンと静まりかえっていながら、ツボを押さえて結果を得る。そのようなものではないでしょうか。
また瞑想の中で、雑念は出てくるものだけれど、
いつまでも雑念を追うなとも言います。
実行は難しいことですが、とにかく、まずは雑念を追っている自分に気づくことが大事です。
それが「自己をならう」の最初の一歩。
そして、その最後の一歩は、自分が実は仏だったのだと知ることとなるでしょうか。
ま、それはまた別のお話にしときましょう。
まずは、
「雑念が出てくるのを止めるのではなく」
「雑念を追うのをやめる」
ここが仏道のコツだと思うのです。